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兼ちゃん先生の しあわせ講座とは

「これまで歩んできた道のりは、失敗したり、挫折したり、さまざまな体験経験出逢いをたっぷり味わってきた日々でした。一番の誇りは「出逢い」

両親、家族、パートナー、師、友人、ライバル、マスターこんなにも素晴らしい方々と出逢えたことを、神に感謝したいと思います。その出逢いによって気づかされてきた「しあわせ」への道。

新しい幕開けを感じさせる本年から「しあわせ講座」をスタートさせたいと思いました。

最終回を迎える時、しあわせな人生を歩み始めた実感を感じとっていただけるよう、ご縁ある皆さまの背中をそっと押すことができればと願っています。(松前兼一)」

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初女先生と思風先生が教えてくれた透明な在り方

佐藤初女先生

「今を生きる」

初女先生は「言葉を超えた行動が魂に響く」をモットーにされていらっしゃいます。

今を生きるで生きていて、そこで何があってもまた切り替えていくから、後悔はない

との事で、まずは目の前のことを精一杯やって生きていきましょう。希望や夢などいいことを考えてまっぐに進まないよりも、もっと心を向けて生きたい。今、このときを感謝しながら真実に生きていると、必ず目的に通じます。

初女先生と森のイスキアについて

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イスキアとは、イタリアの南西にある火山島の名前

 

ナポリの大富豪の子息で、教養もあり美しいナポリの大富豪の息子が、愛する女性とボートを漕ぎながら愛を打ち明けた。彼女がそれを受け入れた時、しかし、彼はなぜか虚脱感に襲われた。何かが足りない、虚しいと感じた彼は、少年時代に訪れたイスキアを思い出し、それ以後、何もかもが退屈で、何をする気にもなれなくなってしまった彼がふと思い出したのは、少年時代に父親に連れられて訪ねたイスキア島のことだった。

 

彼は「みずみずしい感性で、すべてのものに好奇心を持ち、生き生きとしていた自分をもう一度取り戻したい」と願い、一人イスキア島に出かけた。

 

地中海に浮かぶイスキア島から眺める風景は静寂に包まれ、青年は自分自身を見つめ、新たな力を得て現実の生活に立ち戻ることができるようになった。

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どうにもならない心の重荷を感じた時、そこへ行けば癒され、自分を見つめ直し、 新たなエネルギーを得ることができる・・・。そんな場になって欲しいという願いを込め、 このエピソードから「イスキア」という名が付けられた。

心に重荷を抱え、虚ろさに苦しむ人々の「駆け込み寺」として、イスキアは運営された。訪れる人が増え、1992年には、彼女によって助けられた人々の協力のもとに、岩木山の麓に「森のイスキア」が開設された。

龍村仁監督が制作した映画『地球交響曲 ガイアシンフォニー』は、人物に関する取材や対談などから成り、初めは配給会社が見向きもせず、やがて監督自身がチケットを引き受けることを条件に、短期間の上映が行われた。これを見て感動した人々が、自主上映会などを催すようになり、ファンが増えた。かつては各地で開かれる上演会を探さなければならなかったが、今では有限会社龍村仁事務所から、DVD も発売されている。その「第二番」に初女先生が登場する。その取材時の思い出を、龍村監督は次のように記す。

映画のファーストシーンで、先生がイスキアの裏の雪の中からふきのとうを掘り出されるシーンがあります。その日の夜の私達の食事に、ふきのとうの味噌和えをつくって下さるために始まったシーンでした。初女先生のふきのとうの採り方を見ていて、私は胸が熱くなるほどの感激を覚えました。スコップか何かを使ってサッと採られるのだろうと思って見ていると、なんと先生は、小さな枯れ枝を使って、シャカシャカとさわやかな音を響かせながら、まだ雪の下にあるふきのとうの周りの雪をやさしく取り除き始めたのです。「なんと“めんどくさい”採り方をされるのだろうか」、そう思った私は、先生が作られた梅干し入りのおむすび一個が、なぜ自殺まで決意している人の心を癒し、生き続ける希望を与えるのか、の理由がわかったような気がしたのです。

 

大切なのは効率などではない。来訪者に向ける思いは、言葉を交わさないふきのとうにも向けられる。その下には地下茎があるのだから。そしてまた、そのひたすらな思いを来訪者に向ける。来訪者は、最後の支えを求めてすがる思いで訪れる。そして、ひたすらな思いで迎えられる。その「訪ね/迎えられる」ということが大切である。

 

訪れた人とはまず手料理で食膳を共にします。春でしたら、ふきのとうやたらの芽、わらび、うどなどの山の幸、そして北国ならではの海の幸が食卓に賑わいをもたらします。岩木山の麓の澄んだ空気と豊かな緑に囲まれて、自然の恵みを与えてくださった神様に感謝しながら一緒に食事をいただくと、緊張もほぐれて、ゆったりした気持ちになっていきます。そんなところから、苦しみの中で閉ざされていた心の扉が少しずつ開きはじめることもあります。

訪れた方は、「心のふるさとにたどりついた気がする」「生きることの原点を教えてもらった」「人生の岐路を乗り越える勇気が湧いた」など様々な思いを抱くようです。共通するのは、皆、休息と安らぎを得て、元気を回復していくということです。

 

悩みに押しつぶされそうになる人、心を病む人というのは、もともと心が純粋で、繊細なのだと思います。心に傷を負ったとき、すぐに家族や友人たちの中に支えてくれる人を見つけることができればいいのですが、それができないと、どうしたらよいのか自分ではわからなくなって、精神状態が大変不安定になってしまいます。

 

このように、人生に悩み、精神的に屈しかかった人たちを、自宅に受け入れ、共に歩みはじめてもう三十年以上になりますが、食事と生き方との間には神秘的なつながりを感じます。食べることと、その人のそのときの心境とは一致しています。ですから心の中が詰まっている人はなかなか食べることができません。

なにも受けつけなかった人が、少しずつ食べられるようになるのを見ていると、やっと心が動きはじめたのだなあということがわかります。

 

「食べる/食べない」ということは、「生きる/生きない」ということと、相関にも似た、深い繋がりがあるようである。

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