人を責める心

人を責める心

 
ネットで
の誹謗中傷を規制することになりましたね
 
書きこんだ人たちのアカウント削除が続いているということは、
だれもが匿名であっても、自分のしていることが
いいか悪いかの意識があるということですね
 
 
 
 
 
 「人を責める心」      

 

「桜を見る会」の問題や新型コロナウイルスの政府対応についての

政府と野党の対立をみていると

今なにを最優先すべきなのか国会議員ならば考えて欲しいと感じます。

 

与野党の壁を超え、協力しあって対応しなければいけない時期です。

 

国会は、全国民の代表者が集う場所なのですから、

人を責めて困らせることに正義や快感を覚えているような態度は、

人間として問題があり恥ずべきものです。

 

否定し、あらさがしをして、責めるだけで、

それ以上の代替案やもなく、

一緒になって協力しあう気持ちが伝わってきません。

 

 

民主主義は、与党と野党が戦うことで成長してきました。

 

しかし野党になると、政府を責めることばかりで、

醜い権力争いや政権闘争を仕事にしているように見えます。

間違いやおかしいところを指摘するのではなく、

協力してもっといいものにするためにどうすればいいかを考えるときです。

 

人を責めることが正義だという姿を見ると、

たとえ現政府に不満はあっても、野党に政治を任せる気にはなりません。

 

与党と野党が変わったときも、立場を変えてまったく同じようなことをしています。

 

また、しばしば取り上げられる不規則発言「ヤジ」には、

与野党ともに品格のなさが目に余ります。

 

お互いに相手を人間として尊重した言葉使いで接し、

人格的に敬意を払って、紳士的に議論をする努力をすべきです。

罪には厳しく対応しなければいけませんが、

人間には温情をもって接する気持ちが必要なのです。

 

 

人間は不完全です。

 

不完全な人間が考えたものだから、

完璧な考え方というものはありません。

 

理性で考えると「真理はひとつ」なので、正しいか間違いかとなります。

「違い」は、「間違い」ではないのです。

 

自分の考え方の正しさを主張し相手を説得するのではなく、

対立した考え方のいいところを取り入れて、

お互いに納得できる新しい考え方に成長させるという議論の方法を

真剣に考えなければいけない時がきているのです。

 

ディベートの本来の姿は、考え方の違いで戦ったり、

相手の考えを否定するのではなく、

お互いのいいところを見つけて、取り入れることで、

1+13にも4にもすることを考えだすところにあるのです。

 

理性社会は、責めあう社会です。

 

不完全な人間どうしが責めあえば、

この世は生き辛い地獄です。

 

人を責める心は、人間として傲慢な心であり、

人を責める気持ちがある分だけ成長しません。

 

 

個性の時代は、異なる考え方をもった人間が、

相手を否定しあって争うのではなく、

お互いに違いを受け入れ、協力しあって助けあって生きていく時代です。

 

個性の時代を生きる原理が「愛」の原理です。

 

だから個性の時代の問題を解決する能力は、

理性能力ではなく、「愛の実力」なのです。

 

いつも目に愛の光を持って

対立するのではなく、受け入れて

さらに自分の考えに、相手の考えのいいところを

取り入れることができないかと思いで

見ることで、お互いに成長する道を探すことが大切なのです 

 

 

「真善美」を意識して、本当に納得でき、

心を満たすものを最後まであきらめることなく求め続けなければいけないのです

 

芳村思風  

 


Source: New feed

 

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