阿波の国は,由来粟の国とも称せられ農業に深い縁故をもつ国柄である。上古,忌部氏の一族が農耕の業を住民に伝え,田を耕し稲や粟を栽培していたことは,県内各河川の流域に残る遺跡や古墳がこれを物語っている。
ちなみに,旧農業試験場裏(徳島市名東町)に弥生前期の遺跡があり,現農業試験場(名西郡石井町石井)の敷地内に弥生中期の清成遺跡がある。大化の改新政治によって,これまで南方にあった「長国」と北方の「粟国」が合一されて一国となり後に「阿波」と書くようになったが,吉野川流域を「北方」と呼び那賀郡を中心にした地域を「南方」といい,両地方の地域的相違(気候,耕地形成,土地利用,住民性格など)をいまに伝えている。阿波の国は,歴代天皇の大嘗祭に穀,麻で作った鹿服(あらたえ)を貢進したとあり,扇状地の多い吉野川流域は畑作が主であり,桑園が開かれ養蚕の業にも特色があったと想像される。その後,奈良,平安の時代には,各種の農業生産が進んでいたことがわかるが,それにしても自然に依存する度合の強い農業であっただけに,度重なる旱魃や洪水そして病害虫の被害にあってどれだけ苦しんだことであろうか。歴代の国司は農作物の収穫を安定させるために,池を掘り水を貯え灌漑用水を確保し,堤防を構築して洪水を防ぐなどの努力の跡が各地にみられるのである。
鎌倉時代末期から,地頭が深く根をおるし,地方を支配するようになり,一方では地主層が成長して新興領主が登場してくる。下級武士の中には,生活苦から新しい土地をもとめて開墾につとめ生活の場を広げていき,その土地に自分の名をつける者もでてきた。これが「名」(今日の村)である。とくに応仁の乱から関ヶ原時代にいたる戦国時代には,大名・小名が割拠して闘争をくり返し,勝利を得るために国力の充実に力を入れ,農民支配と経済力の開発に力を注いだ。稲の取り入れ後の裏作に麦を作る二毛作が一般化したのもこの頃であるといわれ,牛や馬を耕作に利用することも行われるようになり農業は著しく進歩した。天文10年(1541)の頃,上方から青屋太郎右衛門が阿波へきて,時の領主三好長治に接近し藍染めを伝えたといい,これが阿波藍の発祥ときれている。

藩政時代の農業
蜂須賀家政は天正13年(1585)に阿波守として,17万5750石を与えられ入国した。その後30年間は 特
異な政策をとることなく,新参の封建領主として戦乱に明け暮れたため,戦費調達のための年貢徴収を指令し
ている。元和元年(1615)にはその子,至鎮に淡路一国が加増され25万7000石の阿波藩が成立したのであ
る。
その後,蜂須賀氏は,慶長17年(1612)頃から産業の振興に力を注ぎ始め,農業資金の融資や用水補修,新
規開田などを推進した。また,特産物の保護奨励にも意をそそぎ,里分には藍作を,臨海地域には製塩,山分
には木材とタバコ栽培をと,それぞれの土地に通した産業指導を行い藩の財政を豊かにしている。なかでも
藍作の奨励と,製藍技術の向上にっとめたため,藩の財源を大きくうるおすことができた。
(1)阿波藍
明暦・万治期(1655~1661)には数百町歩の作付面積であったが,全国的な経済商品として飛躍的に発展を
遂げるのは18世紀以降のことである。
即ち元文5年(1740)になると吉野川中下流から美馬・三好の両郡にまでも及び3,000町歩,寛政12年
(1800)には6,500町歩,安政元年(1854)には6,900町歩にまで達した。正保2年(1645)には阿波一国で18
万7000石,元禄10年(1697)には19万4000石と約半世紀の間に7,000石の増収を示すようになり,阿波藩
の表高は25万7000石であったが実際的には45万石の財源をもっといわれたのも,このように藍作による収
益が大きかったからである。
ところで,阿波藍として名声を高めたのは,藩主家政が,阿波に入部した折,前領地播磨龍野5万石時代から
着目していた飾磨(しかま)周辺の葉藍を阿波にもたらし,呉島(現麻植郡鴨島町)に移植したというのが通説
であった。しかし近年の資料から蜂須賀入国以前に藍作が行われていたことは確実である。15世紀中期に
おいて吉野川流域が西日本に冠たる藍生産地として藍作が相当広汎に行われ,県外移出されていたという史
実からも明らかであるとされている。さらに運上銀の徴収,藍玉の枝売り乱売の取締りを強化したため,宝暦6
年(1756)の秋には,藍に対する政策への抵抗が,「藍玉一揆」となって勃発し何人かの犠牲者を出した。葉藍
の栽培と藍玉の製造は「北方」農民を貨幣経済の中におき,土地利用や農家の構え,住民の性格にまで影響
をおよぼし,水田耕作を中心とした「南方」とは顕著な差異をもたらすにいたった。当時の葉藍の収入は,40貫
あたり312匁に対し支出は肥料代100匁,諸雑費40匁,貢租37匁8分,計177匁8分となり,剰余は134匁2
分で比較的有利な条件となるが,この中から藍作税として葉藍収穫高の4分,すなわち124匁8分を徴収され
るから実質,9匁4分の余剰高に激減することになり,藍作農民は苦しい経営を強いられていることがうかがわ
れるのである。
(2)葉タバコの栽培
葉タバコの栽培も藩政期以来の重要な特産物であり,畑地農業地帯の吉野川上流山地の農業経済を支え
てきた作物である。阿波における葉タバコの栽培は,慶長17年(1612)廻国修験者の築後坊が三好郡山城町
大野にその種子をもたらせたのが始まりと伝えられている。しかしそれより50年以前,当時の領主三好家から,
タバコの種子を美馬郡貞光町東端山名の農家に授け,切替畑に播かせたのが最初であるなどの説も残され
ている。葉タバコは,池田・辻・貞光などに集荷され,刻み屋の手によっていわゆる「阿波刻み煙草」に製造され
江戸,大阪はもちろん,中国,九州にまで販売され,火付のよいことから遠くは北海道・東北の漁民にまで歓迎さ
れたという。
品種は文化・文政(1804~1830)のころ,お夏なる女性がよいタバコ種を作って「お夏煙草」の名を残した。ま
た,「宮前煙草」「長順煙草」を選抜したり導入して普及させて,以来今日に至るまで山間地域農業の主幹作物
として重要な位置を占 めていた。
(3)新田の開発・特産品の成立
吉野川は,洪水のたびに沃土を運んで藍作の安定に大きな貢献をし,灌漑,交通運輸などにはかり知れない
恩恵をもたらしたが,毎年のようにくりかえされる洪水の被害も甚大で阿波藩の悩みの種であった。このため堤
防を築き,川の沿岸各地に竹藪を作って被害を少なくしようとした跡が今に残っている。細川・三好時代から
吉野川および那賀川下流沿岸地域を中心にして新田開発が始まり蜂須賀入国後も引続き行われた。さらに
藩政後期には,吉野川下流域の川内,大津,松茂地帯の大規模新田開発が進められ,阿波国の水田面積は
大巾に拡大された。特産品としては,砂糖(阿波三盆)の製造とミカンの栽培がある。砂糖は板野郡引野附近
を中心に板野,阿波両郡の山麓複合扇状地に九州の日向から製糖技術を導入し,のちに白砂糖の製造に成
功し,いまにこれが「阿波三盆」として受け継がれている。温州ミカンは勝浦郡勝浦町坂本に寛政年間(1789~
1802)に導入され,さらに文政11年(1828)に紀州から苗木を移入して栽培が始められ,その後勝浦川中下流
から那賀川下流の山間傾斜地に波及し,現在の温州ミカンの特産地形成の基礎となった。
(4)早生稲「権八」の選出
現,阿南市上中町中原の篤農家中西小十郎氏(1814~1891)は慶応3年(1867)に「権八早生」という稲の新
品種を創出している。当時の模様を中野島村史の「阿波名勝案内」につぎのごとく述べている。
「前略一如何にしても良種を得んものと,自作の稲田より優秀なる一株を選びて栽培し,更に其の中より一種
を抜き区を画して栽培せいこ在来種に比し一段の優秀なるものを穫たり。斯くすること実に5年,漸く良種と認
むるを得広くこれを希望者に頒つ。世人これを呼んで小十郎種と称す。
小十郎住宅の南方に小丘あり権現を元巳れり,東方八幡祠あり,良種を得たる田は其の中間にあり,小十郎乃
ち思へらく,是日頃尊信する両神社の加誰に由るものなりと,権現,八幡の各頭文字を取り,権八米と命名したる
は慶応年間の事なりけり一後略」とある。
この権八早生は10月上旬(10月8日頃成熟期)に収穫されるので作柄が安定している上に稈が細くねばり
がありかつ,節の位置が低いので,わら工品生産の経糸(たていと)用として賞用された。農事試験場において
はこの「権八」の純系分離を行い,「王子権八」,「坊主権八」,「権八82号」等の優良系統を選出し,明治中期~
末期にかけて県の主要品種として一般に広く奨励している。

農業の情勢
明治初年当時の名東県(阿波,淡路,讃岐)では,農林水産物額が全生産額の75.9%であり全国平均70%を上
廻っている。そのうち米・麦・雑穀が,全生産額の52%を占めている。なかでも阿波が圧倒的に優位を保ったの
は,染料類(葉藍)とタバコである。このようにみてくると,明治初年頃の徳島県の農業は藍作を中心とした商業
的農業の性格を保持する一方で,米と麦の主穀農業に依存していたということができる。
(3)農業研究への取組み
明治16年(1883)にはすでに県内に勧業試験場と農業試験場が設置されていた。勧業試験場は,県庁勧業
課所属の試験場で中央政府から交付される西洋新品種や新しい農具を使って試験するものであった。作物
はキャベツ,メロン,ブドウ,米国ソラマメなどであり,明治15年には103種,同16年には93種の栽培調査を行
い,一部有志に配布して試作などが行われたが殆んどが不成功で,わずかにジャガイモが成功したにとどまっ
た。農業試験場は郡,町,村立のものが県下各地にあり,農談会の実験圃的性格をもち,新しい作物の実証展
示を行ったものと考えられている。
この時代の農業書としては明治23年2月編「阿波国藍業略誌・付山藍作」がある。本書は,徳島県属椎野宰
資氏の主筆からなるもので,これに小幡健吉氏(明治29年四国支場)が調査した山藍に関する成績を抜萃追
加したものである。内容は,現実に即して葉藍の栽培法,すくも藍玉の製造法,売買取引,藍大市を記述したも
ので阿波国藍業資料として貴重なものである。

 

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