古事記では、オノゴロ島に降り立ったイザナギとイザナミが、最初に生んだ所が、淡路之穂之狭分島(あわぢのほのさわけのしま)(淡路島)であり、次に生んだのが、伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)でした。
その次に、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、畿内の順番で、大八島を作ったとされています。
古事記に書かれた国生み神話の範囲は、四国・九州・畿内などに限られており、最初に淡路島、次に四国を生んだと書かれていることからも、四国が最も古い歴史を有していると考えられます。

剣山がある阿波の国・徳島は、古事記では粟国(あはのくに)と呼ばれ、別名を大宣都比売(おおげつひめ)と言いますが、大宣都比売(おおげつひめ)は、粟・稗など五穀を司る食物の神とされています。
「アワ」とは、日本語五十音の「ア〜ワ」行にも通じるものがあり、「アワ」とは、かつては太陽を意味する言葉でもあったようですので、「アワの国」とは、「太陽の国」でもあり、太古の昔は日本の中心地でもあったのかも知れません。
「淡路」という言葉は「アワへの路」とも感じられます。
また、「アワ」という言葉は、淡路島と阿波の国との間にある鳴門海峡の「泡」、即ち、鳴門海峡の渦巻きをも連想させます。

阿波の国・徳島は、天皇家とも繋がりがあります。
新しい天皇が誕生した時に行われる重要な儀式「大嘗祭」では、「アラタエ」と呼ばれる、麻で出来た神衣が用いられますが、その麻を栽培しているのが、木屋平村にある三木家であり、忌部氏の末裔であるとされています。
「大嘗祭」で使われる麻が、忌部氏の子孫である三木家によって作られてきたということからも、天皇家と阿波の国・徳島との関係性を窺い知ることが出来ます。
三木は「三ッ木」が語源であり、「ヒツギ」が訛ったものだとも言われています。
皇太子のことを日嗣皇子(ヒツギノミコ)と言い、皇位のことを天津日嗣(アマツヒツギ)と言いますが、そのこととも関係しているのかも知れません。

また、「ヒツギ」とは、「契約の櫃(ひつぎ)」と関係している可能性もあります。
三木家のある木屋平村から穴吹川を下った、隣町の穴吹町には白人神社があり、そのすぐそばの神明神社には、古代ユダヤと同じような、石造りの磐境があります。
かつてのイスラエル駐日大使であったエリ・コーヘン氏が、調査の為にこの磐境を訪れている様子が、テレビ番組で放送されたことがあります。
コーヘン氏は、その形や大きさを見てユダヤの礼拝所と同じであることに驚愕し、近辺に「アーク(聖櫃(せいひつ))」もある筈だと語ったそうです。

忌部神社で祀られている御祭神・天日鷲命(あめのひわしのみこと)が、天磐船に乗って種穂山に降り立ち、麻と梶、粟など五穀の種を授けたと言われています。
天日鷲や天磐船という言葉は、エロヒムの宇宙船をイメージさせる言葉です。
阿波の国一宮である大麻比古神社は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の祖先とされる天太玉命を大麻比古大神として祀っていますが、神武天皇の時代に、忌部氏が麻や梶を植えて阿波の国の産業を開拓していったことと関係があるようです。
忌部神社の御祭神・天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、「麻植(おえ)の神」として神徳を称えられたとのことで、種穂山がある場所は、麻植(おえ)郡という地名になっています。

神棚にお祀りする、伊勢神宮の神札を神宮大麻と呼びますが、神道と麻とは関係があります。
伊勢神宮の御祭神は、皇室の祖神・天照大御神であり、新しい天皇が誕生した時に行われる重要な儀式「大嘗祭」で用いられる麻が、忌部氏の末裔である三木家によって、木屋平村で代々作られてきたことからも、天皇家と阿波の国・徳島との古くからある繋がり・関係性を窺い知ることが出来ます。

剣山の登山口がある見ノ越から、徳島市方面へ東に下った所が、三木家のある木屋平村であり、その隣が神山町です。
神山町や木屋平村、その周辺地域には、古代ロマンが息づいています。
神山町の中心部は神領という地名ですが、神山町神領という地名そのものが、何かを暗示しているような感じさえあります。
かつて、神山町は「大粟」と呼ばれていたようなので、「アワ」が太陽をも意味していたとすれば、「偉大なる太陽」を意味する聖域だったのかも知れません。

神山町神領には、粟国の別名である大宣都比売(おおげつひめ)を祀る、上一宮大粟神社がありますが、上一宮大粟神社は、阿波の国一宮にもなっています。
古事記では、大宣都比売(おおげつひめ)はスサノオに殺されてしまいますが、その時に、大宣都比売(おおげつひめ)の体から、粟や稲など五穀の種が生まれたとして、五穀の起源が書かれています。
私は、大宣都比売(おおげつひめ)が殺されたという表現の中には、阿波の国が封印されたということも暗示されていると思います。

神山町神領にある高根山悲願寺は、邪馬台国の女王・卑弥呼の居城だったという説もあります。
神山町との境界線に割と近い、徳島市の気延山には、天石戸別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社がありますが、神社の背後にある祭壇が、卑弥呼の墓だとも言われています。
天石戸別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社の御祭神は、オオヒルメであり、天照大御神の別名になります。
天石戸別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社は、由緒書きによると、御神格は正一位、延喜式内明神大社となっており、阿波の国一宮でもあります。
小高い山の頂上付近にひっそりと佇んでいますが、大昔は、大麻比古神社、忌部神社と並んで、阿波の国で最も格式の高い神社だったようです。

また、剣山登山口の見ノ越から、北の方へ峠を下りた、つるぎ町一宇には、天磐戸神社があり、忌部神社の摂社であったとされています。
奥の院は、巨岩の岩戸で、岩戸のすぐ下には、神楽岩と呼ばれる大きな石があり、表面が平らで、畳十数畳程の広さがありますので、舞を踊ることが出来ます。
かつては、神代の時代から岩戸神楽が奉納されてきましたが、岩磐の上で舞う神楽は、日本唯一のものだとのことです。
古事記の中では、天岩戸開きの場面で、天香具山の真男鹿の肩など、天香具山で取れたものの名前が数回立て続けに出てきますので、天岩戸開きの舞台が大和三山の一つである天香具山であるかのような印象を受けてしまいますし、天香具山の麓には、天岩戸神社も建てられています。
九州の高千穂にも、岩戸伝説があり、天岩戸神社がありますが、古事記に書かれている天岩戸開きの舞台は、阿波の国・徳島が原型なのかも知れません。

神山町の元山には、天岩戸立岩神社があり、巨岩のイワクラが御神体となっています。
拝殿には、阿波古事記研究会の説明板が掲げられており、「阿波国風土記」の一節が紹介されています。
「空よりふり下りたる山の大きなるは
阿波の国にふり下りたるを、天の元山といい
その山のくだけて、大和の国にふりつきたるを
天香久山というとなんもうす」(「阿波国風土記」)
説明板には、「阿波国の風土記に書かれるように奈良県の香久山の天岩戸神社には、当神社の御神体と同形の御神体が天岩戸として祀られています」と書かれています。

つまり、阿波の国の元山が「元」であり、それが分かれて大和の国の天香具山になったということなのですが、これは、奈良の大和のルーツが阿波の国・徳島であることを表しています。
古事記に書かれている天岩戸開きの神話も、伝説の舞台は阿波の国・徳島にあるのかも知れません。
古事記では、日本の国生みはイザナギ・イザナミの二神によって行われたとされていますが、イザナミを社名とする式内社は、美馬郡にある伊射奈美神社一社しか全国に無いというのも、興味深いものがあります。

阿波の国には、日本の原型となるものがあり、かつては「太陽の国」をも意味する中心地であったようですが、それが意図的に封印されてしまい、歴史の表舞台から姿を消してしまったようです。
阿波の国にあった大和朝廷は、忌部氏などが天皇家と協力して、奈良の大和に遷都したようで、地名にも共通するものが多く残っているようです。
奈良の大和のルーツは、阿波の国・徳島にあるということなのです。
その後、古事記・日本書紀など日本の歴史が編纂される時に、阿波の国にあったルーツは封印され、歴史の表舞台から消えてしまったのです。

そこまでして、阿波の国を封印しなければならなかった理由は、やはり、天皇家と古代ユダヤとの間に、深い繋がりがあるからなのかも知れません。
天皇家が、古代ユダヤの最も正統な血筋・霊統を受け継いでいることや、秘宝「契約の箱」が剣山に隠されている、というような秘密が外国に知られてしまったら、外国から侵略される危険が生じてきたので、外敵から自国や秘宝を守る必要に迫られて、天皇家の出自を封印したのかも知れません。
「敵を欺くには、まず味方から」ということだったのかも知れません。

何故、「イスラエルの失われた十支族」が歴史上から消息を絶って、三千年近く経った今でも行方が分からなくなっているのかということとも、関係がありそうです。
「イスラエルの失われた十支族」によって大和朝廷が誕生し、かつては阿波の国が元であり、ここが中心だったのですが、大和朝廷が阿波の国を封印して歴史の表舞台から消してしまったからなのです。

大和朝廷の勢力図がまだ日本全体に及んでいない早い段階で既に、「イスラエルの失われた十支族」によって建国された日本の原型である阿波の国は、国内的にも封印されてしまったのです。
そして、東洋の一番東にある島国・日本の中で、悠久の時の中に「消滅」していき、行方が分からなくなったのです。
古代ユダヤ民族にとっての「ユートピア」である「東方の日出る国」を目指して旅した「イスラエルの失われた十支族」は、東洋の一番東にある最果ての地、島国・日本の中で封印され、歴史上から姿を消していったのです。
そして、これは、エロヒムの大いなる計画なのです。

太古の昔、阿波の国と、中東とを結ぶルートは、大陸のシルクロード経由だけではなかったかも知れません。
神山町と徳島市との境界近くにある、神山町歯の辻には、船盡(ふなはて)神社という、不思議な名前の神社があり、鮎喰川を挟んだ対岸には、船盡比売(ふなはてひめ)神社があります。
私が土地の古老から聞いた話では、船盡比売(ふなはてひめ)神社が遥拝所であり、昔は雨で増水すると対岸に渡れないので、ここから船盡(ふなはて)神社を遥拝していたとのことでした。
船盡(ふなはて)神社には、謎の古代文字で書かれた二本の幟(のぼり)「トウカミエヒタメ」と「スエキアワカミ」が伝わっています。

「船盡(ふなはて)」とは、「船が盡(つき)る」ということであり、ここが古代における大陸からの船の終着場であったとも考えられています。
鮎喰川は、徳島市内の河口近くで吉野川に合流する、大きな河川であり、古代、大陸からの大きな船は、ここまで入ることが出来たようです。
かつてソロモン王が貿易の時に使っていたタルシシュ船が、船盡(ふなはて)の地まで来ていたと考える地元の研究家もあります。
ソロモン王は、タルシシュ船と呼ばれる大規模な船団を組んで交易を行っており、インドまでは来ていたようですが、さらに東の日本にも来ていたのかも知れません。
詳しいことは分かりませんが、阿波の国に日本の原型があった時代、大陸からの船の最終到着地が船盡(ふなはて)の地となっていたようです。

何れにしても、日本の原型である阿波の国・徳島は封印されてしまい、歴史の表舞台からは姿を消してしまうことになりました。

 

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