忌部というのは、のちに斎部とも書かれたように、神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。初め中臣氏とともに神事を掌ったが、のちに中臣氏だけが栄えるようになった。このため自家の衰運を嘆いた斎部広成が、祖先以来の経歴を述べて平城天皇に奉ったのが『古語拾遺』である。
それによると、忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉命であるが、ほかに天太玉命に従っていた五神があり、そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖となったという。なかでも天日鷲命は穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣を作り、その子孫が最も著われて代々、木綿・麻布などを朝廷に貢上し、それは大嘗会の用に供された。麻植郡の名もこれから起こった。
天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。

 

忌部神社

阿波の忌部神社は神名帳の注記のように、天日鷲命を祭神とし、延喜式臨時祭の条には「天日鷲神社」とある。嘉祥二年(849)、天日鷲神に従五位下が授けられ、貞観元年(859)大麻比古神とともに従五位上に進み、以後、両神同じく元慶二年(878)に正五位下、同七年に従四位下に昇叙されている。ところが、その後の動向は史料が欠けて詳らかではなく、中世には兵火にかかったりして、わずかに細々と存続したようだ。
ただし、忌部氏はこの付近に栄え、代々荒妙御衣を貢上して御衣御殿人と呼ばれ、室町時代に及んだ。忌部氏の中心地は社地の西南種野山の平地で、南北朝時代には武士として活躍しており、三木氏を称していた。三木はおそらく御調(ミツキ)の意であろう。この三木氏の一部が、吉野川をさらに遡った美馬郡の、貞光川という支流の流域に移った。鎌倉時代の初期の頃と思われ、そこの端山の吉良というところに忌部神社を分祀し、忌部庄の名が生れた。
ところで、忌部神社の祠官は、代々阿波忌部氏が務めた。忌部氏は上記のように天太玉命の後裔である。『古代氏族系譜集成』などの忌部氏系図によると、天玉太命の玄孫にあたる飯長媛命に斎主と注記され、神魂命の後裔にあたる由布津主命と夫婦となり、その間に堅田主命が生れている。そしてその子孫が、阿波忌部・安房忌部氏とに分かれている。
阿波忌部玉淵に至って、麻植郡大領となり併せて忌部大祭主を務めるようになった。以後、玉淵の子孫が代々忌部神社の大祭主を務めたとある。戦国時代、忌部大宮司持光は因幡守を称し貞光城主であったが、長宗我部元親に攻められ降ったことが系図に記され、その孫の景光のときに笠井氏を称している。

 

大麻比古神社

明治に至り忌部神社は国幣中社に列したが、そのときいずれが本社かわからず、政府から使を派遣して実地に検分し、当時、麻植郡山崎村鎮守の天日鷲神社が、延喜式の忌部神社であることに確定され、社名を復して祭典が執り行われた。
一方、大朝比古神社の祭神は、一説に猿田彦命というが、大麻比古すなわち天富命の父津咋見命の別名という説の方が正しいかと思われる。大麻の名からしてやはり忌部氏奉斎の神社であろう。大麻比古神社も忌部神社と同じく、承暦四年(1080)に神の崇りが現われたと『朝野群載』に見えるくらいで詳しいことは分からない。ただ、国府に近かったことから、中世には阿波の一宮とされ、大麻大名神とも呼ばれた。また、古くは大麻山中にあったが、のちに麓の現社地へ移されたという。
近世には、徳島藩主蜂須賀氏が、阿波と淡路を領したので、大麻比古神社は阿波.淡路の総産土神と称された。なお、 阿波にはもう一社一宮があり、神名帳名方郡の天石門別八倉比売神社である。

 

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