大嘗祭は、即位に際し、天皇が初めて新穀を食(め)され、皇祖及び天神地
祇に供し奉る儀式で、一世一代の特別な新嘗祭(にいなめさい)である。その
詳しい内容を、主に「神社のいろは 要語集 祭祀編(扶桑社)」から紹介し、
独自の考察を加える。なお、このテキストは「神道要語集 祭祀編」(宗教編と
祭祀編がある)が基本となっており、神職ならば当然知っておくべき祭祀知識
がまとめられたものである。
1:序
延喜式では祭祀を大祀、中祀、小祀に分けているが、大祀は大嘗祭のみで、
最も重要な儀式と言える。
大嘗祭では悠紀(ゆき)国と主基(すき)国が卜定(ぼくじょう:亀卜(きぼ
く)により占って決定すること)に依り決定される。両斎国の文献での初見は、
天武天皇 2 年条の播磨・丹波だが、同じく 5 年 9 月条では、新嘗のためのもの
ではあるが斎忌(ゆき)は尾張国、次(すき)は丹波国に卜定され、聖武天皇
の御代には丹波国が悠紀になっている例もある。光仁天皇の御代から大方、都
を中心として東西となり、悠紀は三河国、主基は因幡国、その後、宇多天皇の
御代から悠紀は近江国に固定され、醍醐天皇の御代からは主基は丹波国ないし
備中国からとなり、後鳥羽天皇以後は丹波国と備中国を交互に充て、幕末に至
る。その起源は日本書紀に記載のある「天狭田(あまのさなだ)、長田(ながた)」
や「狭名田(さなだ)、渟浪田(ぬなた)」にあると思われる。
以下、大嘗祭の大きな流れである。
①両斎国の卜定(4 月)
②抜穂行事(9 月)
③北野斎場行事(白酒(しろき)・黒酒(くろき)の謹醸、御贄の調備、神服調
整、10~11 月)
④御禊(ごけい、10 月下旬に賀茂河原行幸)
⑤造殿行事(祭日前 10 日)
⑥供神物の供納(卯日当朝、斎場・大嘗宮)
⑦大嘗宮悠紀殿主基殿の儀(卯日夜~翌暁)
⑧節会(辰巳午日)
<斎田の意味>
“狭い田”や“長い田”は現在の棚田でも見られるように、基本的に低地に
於ける田ではなく、山間部に於けるものである。それは、この国に於ける稲作
当初、大規模な灌漑設備が整っていなかったためで、統一王国ができてからは、
多くの民を安定して養う必要性が生じたために、低地に於ける灌漑農法が考案
され、発達したのである。その灌漑設備として大きな役割を果たしたのが大規
2
模な古墳群である。これらは各地方の大王や有力者の力を示すものでもあるが、
その主たる目的は、古墳の周囲に濠をめぐらし、灌漑用水をもたらすことにあ
った。
その統一王国とは、丹後の海部氏が大王家として治めた邪馬台国(やまとの
くに)に他ならない。故に、いずれの斎国も海部氏縁の地なのである。これに
はまた、本格的な水耕式稲作をもたらしたとされる徐福の渡来も考慮する必要
がある。

卑弥呼が女王として統治した初期の邪馬台国は都祁野~泊瀬付近にあったと 推測され、そこは山間部なので、山間部に於ける“狭い田”や“長い田”であ る。そこを「天=高天原」と見なすなら、卑弥呼はまさしく天照大神のモデル である。 また、“名”は宇宙の原理に関わる重要なキーワードで、その真理は“眞名井” にあり、“渟”は(勾)玉のことで、いずれも海部氏との深い関係を暗示してい る。(なお、“渟”は黄金の暗示でもある。) 播磨、丹波、尾張、三河、因幡、近江、備中いずれも海部氏の丹後に関係が 深い地域であり、それは丹後から稲作が広まったためである。

造酒童女は当地の大少領の未婚女性だが、大嘗祭当夜の供御(くご)の御飯 (おんいい)の奉炊に至るまでの一切の奉仕を行う。神宮の物忌(ものいみ) 童女と同様、この童女が手を付け始めることが原則とされている。抜穂の場合 には最初に穂を抜き、斎場の造営に際しては、まず忌鎌(いみかま)にて草を 払い、忌鍬(いみくわ)にて掘り始める。御料材の伐採に於いても、忌斧(い みおの)にて切り始め、稲つきでも最初に手を付ける。 この造酒童女 1 人、稲実公 1 人(男)、大酒波 1 人(女)、大多米(おおため つ)酒波 1 人(女)、粉走(こはしり)2 人(女)、相作(あいつくり)4 人(女)、 焼灰(はいやき)1 人(男)、採薪(かまぎこり)4 人(男)らを物部人(もの のべのひと)とか物部女(もののべのおみな)と言い、斎場に宿泊する。これ 以外に 300 人が採用され、斎田の奉耕や京への運搬に従事する。更に、歌人(う たびと)20 人、歌女(うため)20 人が採用され、卯日の当日、国司に率いられ、 大嘗宮の前で国風歌(くにぶりのうた)を奏する人たちである。 <物部氏> 物部氏は軍事だけではなく、本来は重要な神事に携わる祭司一族であること が伺える。かつては牛の生贄を捧げた神殿が多かったが、本来の犠牲を捧げる 神殿はエルサレムだけであることから、最終的に権力を握った秦氏によって犠 牲は禁じられた。すなわち、“牛に勿れ”と書く祭司部民だから“物部”なので あり、犠牲を禁じられると共に、特定の地域に押し込められた。それが、いわ ゆる“部落=不可触民の村”の始まりである。 牛を犠牲にする際には必ずその血で穢れるわけだが、それは唯一、祭司のみ に許された。従って、四足の獣や皮を扱う者たちは、卑しい身分などではなく、 封印された古代の祭司氏族なのであり、部落問題を解決せずして、この国が世 界の盟主足り得ることは無い。 <物忌> 神宮の物忌童女が奉仕するのは、現在では遷宮諸事の中でもとりわけ重要な ものだけだが、かつては童男と共に子良(こら)と呼ばれ、第二次性徴を迎え る前の子供たちが御正殿並びにその直下の心御柱周囲の清掃や、神事に於ける 玉串奉奠などに御奉仕していた。(彼らの父が神官。) その原型は、この国が大邪馬台国として統一された時、卑弥呼の 13 歳の宗女 トヨが女王の座に就き、父の神官が補佐したことにある。それはすなわち、海 部氏の巫女と神官の関係である。 また、造酒=酒造りの元も海部氏の丹後にあり、神宮の御酒殿(みさかどの) は丹後からの勧請である。

 

抜穂行事 9 月に入ると、吉日を選定して抜穂の儀が斎行される。儀に先立って水際で大 祓が行われ、その後、御田に入って稲穂を抜き取る。まず造酒童女、次に稲実 公、酒波、物部の男女の順である。最初に抜いた 4 束を御供の料として高萱御 倉に納め、それ以外は白酒・黒酒の料として稲実殿に納める。高萱御倉は内宮 の御稲御倉(みしねのみくら)のような構造である。 抜穂が終わると、八神殿にて祭典が行われる。この八神は御歳神(ミトシノ カミ)、高御魂神(タカミムスビノカミ)、庭高日神(ニワタカツヒノカミ)、御 食神(ミケツカミ)、大宮売神(オオミヤノメノカミ)、事代主神、阿須波神(ア スハノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)である。 稲は斎場で乾燥された後、御稲韓櫃(みしねのからひつ)と竹籠に納められ、 擔夫(もちよおろ)300 人が担いで京に運ぶ。韓櫃と籠にはいずれも木綿が付け られており、行列は御米を中心として、禰宜卜部と木綿蔓(ゆうかずら)を着 けた稲実公などが前を進み、造酒童女は輿に乗って供奉し、稲実卜部が後ろを 進む。そして、9 月下旬に京に入り、大麻(おおぬさ)と塩湯(えんとう)で修 祓を受け、斎場の竣工まで一時、外院の仮屋に納められる。 <八神殿の神々> ・御歳神 豊作の守護神。スサノオと神大市比売(カムオオイチヒメ、大山祇神の娘) の間に生まれたとされるが、スサノオは海部氏系、大山祇神は縄文アマ系であ り、豊作の守護神=豊穣神だから、結局は豊受大神と同義。 ・高御魂神 造化三神の一柱。 ・庭高日神 庭を照らす日の意。屋敷の神。御歳神の子だから海部氏系。 ・御食神 食物を司る。古事記ではオオゲツヒメに相当するが、日本書紀では大年神= 御歳神の系譜に於いて、ハヤマトの妻として八神を生んだ、との記述がある。 話としては混乱しているが、御食神の根源は海部氏の豊受大神。 ・大宮売神 織物と酒造を司る。太玉命(フトダマノミコト)の娘とされるが、食物・穀 物を司る女神である若宮売神(ワカミヤノメノカミ=豊受大神)と共に丹後の 大宮売神社で祀られており、丹後は機織りや酒造りの起源とも言える場所だか ら、海部氏系。

 

事代主神 宣託の神。国譲りの事代主としては、ここに登場する意味が不明。一説にあ るような、元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神 の格も持つようになった神(Wikipedia)と見なせば、田の神ということで、御 食神と同義。 ・阿須波神 屋敷の守護神。御歳神とアメチカルミズヒメとの間に生まれた神々の一柱。 古事記にしか登場しない、ほぼ正体不明の神だが、御歳神系ならば海部氏系。 ・波比伎神 足元を守る神であり、旅の神。御歳神の子。御歳神系ならば海部氏系。 結局、高御魂神を除き、海部氏系の豊受大神由来の神々と言える。 4:北野斎場 北野斎場は宮城(きゅうじょう:皇居)の真北の位置である。平安京大内裏 (だいだいり)の北面する外郭の真ん中にあった偉鑒門(いかんもん)から 80 丈(約 242 メートル)の地で、内院と外院に区切られた斎場である。外院は斎 田の稲が京に到着するまでに建てられ、内院はその到着後、両国の国司によっ て造営される。 まず地鎮祭が行われ、卜食(うらはみ:亀の甲を焼いて生じる筋目で占う) された野や山に入り、野の神を祭って萱を刈り取り、山の神を祭って料材を伐 採する。それらを内院に搬送し、更に大祓を行ってから着工する。神宮式年遷 宮に於ける山口祭や御杣始(みそまはじめ)祭と同様である。

 

内院には八間神座殿(やまのかみのくらのとの)、高萱片葺御倉(たかかやの かたぶきのみくら)、稲実殿、倉代殿(くらしろのとの)、御贄殿(みにえとの)、 鋪設殿(もうけのとの)、黒酒殿、白酒殿、麹室屋(かむたちのむろや)、大炊 屋(おおいいのや)、臼殿(うすのとの)が設けられるが、ここでは御飯(おん いい)を除く白酒・黒酒をはじめ阿波・淡路・紀伊の 3 国からの海産物(御贄) の調理と収納が行われる。 内院の南には神服院(かむはとりのいん)が建てられる。神服(かんみそ) 調整の院であり、そのための神服女(かむはとりのおみな)の宿屋も建てられ る。ここでは、繪服(にぎたえのみそ)が奉職される。繪服は「和妙(にぎた え)」の神服で、三河の赤引糸で織られる。これは、三河国に発遣された神服使 が捧持し、卜定された織部の長 2 人と織女(おりめ)6 人、工人(てひと)2 人 の計 10 人を率いて京の斎場に至り、悠紀・主基それぞれに 5 人を充てて奉職さ せる。 一方、麁服(あらたえのみそ、荒妙)は阿波国の三木一族が織り上げ、神服 使が京に捧持して神祇官に納められる。繪服は卯日の夜、他の供神物と共に斎 場を出発し、神祇官から出発した麁服と途中で合流し、大嘗宮の神座に奉安さ れる。 大嘗祭に於いて和妙・荒妙が奉られることは、神宮に於ける神御服祭(かん みそさい)と同様、天照大神が高天原に於いて自ら神服を織って神祭りされた 伝承に基づくものである。 <繪服と麁服> 何かと特定の一族が織り上げる麁服(麻)ばかり注目されるが、繪服(赤引 糸とは“清浄な絹糸”の意)と対となってはじめて意味を成す。それは、現在 でも神宮の神御服祭で見られるように、神のお召しになる御服であって、陛下 がお召しになることはできないのである。 しかしながら、麁服は織り上げて献上されることからすると、その土地のエ ネルギーを含めて織り込むことが重要なのかもしれない。

 

御禊 10 月下旬、二条三条の河原に行幸して行われ、「河原の大祓」とも言われる。 江家次第(ごうけしだい)に依ると、御手水、御麻一吻一撫、御贖物(おんあ がないもの)折敷高坏 2 本供進(一本解縄散米一本人形)、宮主(みやじ)祓詞 奏上、五穀を散ずる大炊寮となっている。要は、御贖物の縄を解いて米を散じ、 人形(ひとがた)にて身を左右中と祓われる儀式である。 東山天皇の大嘗祭再興(1687 年)以降は、清涼殿の東庭もしくは昼御座で行 われ、明治の大嘗祭(1871 年)でも宮殿内で行われている。大正と昭和も京都 御所内の小御所(こごしょ)で行われたが、今上陛下は皇居宮殿「竹の間」で 行われた。

造殿行事 大嘗宮を建てる場所は、平安初期の平城(へいぜい)天皇の御代から大内裏 の南中央に位置した朝堂院(ちょうどういん、八省院)の前提にあった竜尾壇 (りゅうびだん)の下であった。それ以前は、乾政官院(けんせいかんいん) や太政官院などである。朝堂院焼失後は、およそ旧地の竜尾壇の下に建てられ た。明治の大嘗祭では皇居内の吹上御苑で行われ、大正・昭和の時は京都の大 宮御所内の旧仙洞(せんとう)御所御所の御苑が充てられ、平成の大嘗祭は皇 居内東御苑で行われた。 造殿行事はまず地鎮祭が「大嘗宮の儀」の 7 日前に行われる。祭員には神祇 官の中臣、忌部並びに稲実卜部、禰宜卜部、悠紀主基両国の国司以下稲実公、 造酒童女、灰焼などの雑色人があたる。夜の儀のため、まず童女が火を鑚り始 め、稲実公が火を鑚り出し、灰焼が火を吹いて、国司や郡司の子弟が持つ松明 に移す。その 8 人の子弟が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西 21 丈 4 尺(約 65 メートル)、南北 15 丈(約 46 メートル)を測って宮地(みやどころ)とする。 これを半分に分け、東を悠紀院、西を主基院とする。 そして、稲実卜部が童女を率いて、宮地の四隅と中央、四方の門に食薦(す こも)を敷き、幣物と神饌を献ずる。その順序は図の通りで、「い」「ろ」「は」 「に」「ほ」が悠紀、「イ」「ロ」「ハ」「ニ」「ホ」が主基の順序である。祝詞は 卜部が南門の内に入って奏上する。両国の童女が木綿を付けた榊を捧げ、これ から両殿が建つ四隅と、門が立つところに挿し立てて斎鍬(いみくわ)で 8 度 穿つ。こうして地鎮祭が終了すると、諸工が一斉に建設に取り掛かる。

<大嘗宮の造り> 祭日 3 日前までに、5 日間で竣工し、終了後は取り壊すので、神宮御遷宮のよ うな白木ではなく、黒木作りの簡素な建屋である。 帳として麻布を垂れるが、機能的な面もあるだろうが、どうも麻というのは 重要である。麻は、さまざまな動植物と共に、神々の星ニビルから下ろされた とされる。 7:供神物の供納 北野斎場の内院や神服院で調えられた白酒、黒酒、御贄、神服は、卯日の当 朝、巳刻(午前 10 時頃)に斎場から出され、大嘗宮に供納される。その徒歩行 列は総勢 5,000 人にも達する。この時刻、天皇は宮殿で大忌の御湯(おんゆ) を使われる。 この行列では一種の神籬(ひもろぎ)とも考えられる標山(ひょうのやま) が曳かれる。御飯(おんいい)の御料である御稲(みしね)は輿(こし)にて 舁(か)かれ、造酒童女のみは輿にて供奉する。列に加わっている諸人は、賢 木(さかき)や白杖(しらきのつえ)、青竹などの執物(とりもの)を手にし、 供物の品々は日蔭蔓(ひかげのかずら)や草木、花などで飾られ、物を頭に戴 く女もいる。行列の前部が神供の品々で、後部は両国からの貢物などである。 北野斎場を出発し、宮城の北から渡って来たこの大行列は、宮城の北門であ る偉鑒門前で左右に分かれ、悠紀は宮城東の大宮大路を、主基は西の西大宮大 路を通って七条まで南下する。そして、中央の朱雀大路に向かって合流し、悠 紀はその東側を、主基は西側を北上し、未刻(ひつじのこく:午後 2 時頃)に 宮城の南門である朱雀門に達する。ここで、神祇官から出発して来た阿波の麁 服が行列に加わる。そこから朝堂院の第一門である応天門を経て、第二門の会 昌門に入り、行列の前部と後部に分かれる。前部はそこで神祇官の祓を受け、 その先導に依り大嘗宮へと向かう。後部は会昌門前で停止し、その捧持してき た品々は翌朝までに豊楽院の庭上に陳列される。 前部は大嘗宮の南門に至り、そこから悠紀は東に回る形で北門に向い、主基 は西から回り込んで、再び合流する。その行進の前に、両国の神服の男女の一 団が酒柏(さかかしわ、酒を飲むための器)を各膳屋に納め、行列が合流した 10 後に、繪服と麁服が両殿の神座に奉納される。続いて、他の供神物や祭器具な どがそれぞれの膳屋、臼屋などに納められ、供納の儀は終了となる。 その後、悠紀殿で供御の御稲の奉舂(ほうしょう)が始められる。まず造酒 童女が稲を舂(つ)き、酒波以下が皆で舂き終わる。この間に稲舂(いねつき) 歌が詠まれる。そして、古くから膳(かしわで)のことに携わってきた高橋・ 安曇の両氏が酒部(さかべ)・膳部を率いて御飯を炊き、神膳を調理して盛殿(も りどの:膳屋の一室)に備える。 <繪服と麁服> 繪服と麁服が両殿の神座に奉納されることから、これらは神がお召しになる 服であって、陛下はお召しになれない。 <安曇氏> 安曇氏は古くから膳に携わってきたというから、単なる海洋民ではない。す なわち、豊穣神を祀るからこそ、膳に関われるのであり、その豊穣神は豊受大 神=イナンナである。つまり、海部氏と深い関係にある。 8:大嘗宮の儀 内裏から廻立殿に渡御した天皇は、浴湯(ゆあみ)なさる。これを「御湯殿 の儀」「小忌御湯(おみのおゆ)」と言い、この後、戌刻(午後 7~9 時頃)に祭 服に着替えて悠紀の正殿に渡御なさる。御巫(みかんなぎ)、猿女(さるめ)、 中臣、忌部が左右に前行し、大臣が天皇の直前を行く。天皇は菅蓋(すげかさ) を差し掛けられ、脂燭(ししょく)で足元が照らされる中を、徒跣(とせん: 素足で歩くこと)で葉薦(はごも)の上を進みなさる。そして、悠紀の正殿に お入りになると、一旦、中戸の外に南面して著御(ちゃくぎょ)なさる。 次いで、伴(とも)・佐伯の両氏が南門を開き、群臣が会昌門から参入する。 この参入の時、隼人が犬声(悪霊を祓う呪力があると信じられた蛮族の発声) を発する。そして、吉野の国栖(くず)に依る古風(いにしえぶり)、悠紀・主 基両国の歌人に依る国風(くにぶり)、美濃・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲な どの語り部に依る古詞(ふるごと)が奏され、最後に隼人の風俗歌舞(くにぶ りのうたまい)が奏される。 歌舞が終わると、皇太子以下が帳舎を出て庭中に跪き、まず皇太子が八開手 (やひらで)を打って退下、続いて親王以下五位以上、六位以下の順で一斉に 八開手を打って、五位以上は再び帳に着く。これらの次第から、南面の座は歌 舞や拝礼を受ける座と言える。

大嘗祭では天照大神と天神地祇をお迎えすると思われるが、天照大神だけは 天皇が御親らお祭りする神だった。神膳を進める所作では「おお」と称唯(い しょう)する応答を、天皇御親らが行われる。「江家次第」には“天皇頗(すこ ぶ)る低頭す、拍手称唯す”とあり、「江記(ごうき)」には“天皇拍手少しく 低頭す、粛敬す、又称唯あるべきかな”などの言葉が注記で入っている。称唯 とは、宮中で天皇に召された官人が口を覆って「おお」と応答することで、下位の者が上位の者に対して行う服従の作法である。(本来は“しょうい”が正し い読みだが、“いしょう”と転倒して読むのは、“譲位”と音が似ているので、 それを避けたものと言われている。)だから、天皇が臣下に対して行うことはあ り得ない。天皇が行う場合は唯一、皇祖の天照大神に対してのみである。天皇 は神迎えを行い、神に従う作法をするのが、天皇の神への真摯な作法である。 天皇御親らが神になる作法ではなく、とにもかくにも丁重に神迎えし、天照大 神をおもてなしするのである。これこそが、天皇一世一代の大嘗祭の秘儀であ り、現在の神道祭祀の作法に通じているのである。

大宝律令の神祇令に「凡そ践祚の日,中臣は天神の寿詞(よごと)を奏せ、 忌部は神璽鏡剣(しんじのかがみつるぎ)を上(たてまつ)れ」とあるように、 京師の忌部は大嘗祭の都度、皇位の印である鏡と剣を作り奉っていたのですが、 1036 年、第 69 代・後朱雀天皇を最後に廃止となり、中臣の寿詞だけとなります。 本来の八咫鏡は伊勢神宮で祀られ、天叢雲剣は熱田神宮のご神体として祀られています。 麁服とは、天皇が即位後初めて行う一世一度の大嘗祭においてのみ使用する、 阿波忌部が織りあげた麻布の神服(かむみそ)を言うのです。麁服は天皇自身 が着るのではなくて、天皇が神衣として最も神聖なものとして、天照大神にお 供えする物です。上古より阿波忌部の氏人が製作するから麁服なので、忌部以 外の人達が作成すれば、それはただの麻織物なのです。やはり、麁服は天皇がお召しになるのではなく、神にお供えするものなので ある。つまり、真床御衾は神が降臨する場、神座(上座に通じる)であり、神 ではない天皇は入ってはならない、触れてはならない場所なのである。 また、大嘗祭は特別な新嘗祭なので、新嘗祭での母屋の舗設を見ると、神座、 寝座、御座(陛下が座られる場所)があり、神座は黄端の短畳(たんじょう)、 御座は白端の半畳で、神座と御座は相対して西南の神宮の方向に設けられる。 寝座は神座・御座の東、母屋のほぼ中央に南北に敷かれる。薄帖(薄い畳)を 何枚も重ね敷き、南に坂枕(さかまくら:薦(こも)で作られた頭を乗せる部 分が斜めになっている枕)を置き、羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立ての御衾 が掛けられる。その端には女儀用の櫛、檜扇(ひおうぎ)、沓(くつ)などが置 かれ、古くはこれを「第一の神座」と称した。 大嘗祭もこれに類しているはずであり、この寝座に掛けられる御衾を真床御 衾と解釈するならば、この寝座の端には女儀用のしつらえが成され、神座と御 座は相対して神宮の方向に設けられるから、この新嘗祭で降臨する神とは、皇 祖神で女神の天照大神をおいて他に無い。これが大嘗祭となると、悠紀は豊受 大神、主基は天照大神なのだろう。

 

 

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